『「英語が使える日本人」は育つのか?』
山田 雄一郎・大津 由紀雄・斎藤 兆史 (著)
2009年
岩波書店
☆☆
岩波ブックレットのNo. 748。サブタイトルは「小学校英語から大学英語までを検証する」。
3人の論者による、文部科学省「『英語が使える日本人』の育成のための戦略構想」批判。「日本人は英語が使えるようになるか否か」を論じた本ではなく、経済界と語学産業界からの強い要望に応えるかたちで文部科学省の進めている学校英語教育強化路線に異を唱える内容。「戦略構想」を意識したタイトルなのはわかるが、サブタイトルはミスリーディングだと思う。
3人の危機感は深刻で、理念無き日本の英語教育政策がこのまま進められれば、日本人の言語運用力(日本語を含む)は無茶苦茶なことになってしまうという(どんな英語教育が推進されたってまさかそんなことになるはずがないと誰もが考えている「日本語ができない日本人」が本当に生まれ得ると考えているようだ)。3人が目指しているのは、「英語を身につけるのは簡単なことではない」という、自明でありながら多くの人々が受け容れるのを拒む大前提を徹底的に知らしめること。世間を味方につけることによって、文部科学省が既定路線として進める政策に歯止めをかけることを目論んでいる。
3者を代表して(?)山田が冒頭で激しくアジった後、それぞれの提言が示される。それらの提言をテーマとして繰り広げられる3人の鼎談が本書の大部分を占めている。3人の共通意見としては、英語教育よりも「ことばの力」を伸ばす教育を優先すべきこと、学校教育現場ですぐに使える教材の開発を急ぐこと、英語教員の養成・研修制度の改革も視野に入れること、等々。
読み進めるうちに「事は英語教育に限定された話ではなく、言語教育一般の話として論じられるべきなのでは?」という気持ちが高まってきた。最後に一言だけ触れられただけで本格的には論じられなかったのが、まさにこのテーマ。学校教育改革の中心に「母語の力を伸ばすこと」を据えようとすると、最も大きな反発を示すのは意外にも国語教育界なのだそうだ(全ての学科教育の基礎的な力として「論理的にものを考え表現する言語力」のようなものを想定しても、国語教育の関係者からは「情緒や感性抜きの『読解力』なんてものはそもそも存在しない」というような反応が返ってくることが多いのだとか)。先日読んだ『
日本語は国際語になりうるか』(鈴木孝夫 1995年 講談社)なんかでも「国語教育界との絡み」については述べられていない。これは、ちょっと面白いテーマを見つけたような…。
岩波ブックレットにしては装丁もお洒落だし、この薄さ。関心のある人ならサッと一読できるだろうと思う。まさにそういう本を目指したのだろうが、いささかサラッとし過ぎのような気もする。特に3者の意見は、3人にとっては三者三様なのだろうが、部外者から見れば非常に似通っている。基本的な問題の捉え方が共通しており、互いの意見交換においても「その通りだと思います」とすぐに収束してしまう3者の鼎談には、悪く言えば「仲良しグループ」の放つ甘さが感じられた。鼎談という形式をとらず、論点を簡潔に整理した上で、3人の主義主張を明確に示した方が良かったのではないかと思う。
本文70ページ程度。

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