2007/9/17  20:32

映画評論というフシギなもの・その3【ますますえらそう注意報】  映画・俳優一般

前回までのあらすじ(みたいな)

1991年の夏ごろのこと、Kumikoは今まで当たり前のように読んできた映画評論というものについて改めていろいろ考え、(a)創り手にフィードバックされ、作品の成功・失敗の決定に影響する (b)観に行くかどうかの判断材料になる (c)読み物として読者を楽しませる…という3つの意義のどれも果たしていない日本の外国映画評論は「読む必要なし」という結論に達した。以来16年間、ほとんど読んでいない。


一方で、日本の外国映画評論は「評論」というより「解説」だという意見も聞いたことがあります。

「解説」なんてものが果たして必要かどうか…今は必要ないけど昔は必要だったんだろうとか、いや映画によっては今でも必要かもとか、まあそのへんは人それぞれでしょうけど。

それより問題は、「解説」にしても「評論」にしても、それを書く人…特にプロとしてお金をもらって書く人は、読者よりその映画に関して豊富な知識を持っていなければならないという、当然の大前提です。

映画評論家を名乗っている人々は、そう名乗る以上、映画に関してはそこらの素人には及びもつかない知識を持っているのでしょう。しかし私は考えてしまったのです。そもそも「映画に詳しい」って、一体何?と。

考えてみれば、世の中に映画は数限りなくありますが、内容は一本一本違います。その映画をより深く理解するために必要な知識は、一本一本違うはずです。

例えば、…経験40年の大ベテランで今までに見た映画は2万本、でも「ハリー・ポッター」の原作を読んだ事はない映画評論家と、今までに見た映画はせいぜい数十本だけど、「ハリー・ポッター」は暗記するほど読んでいる女子高校生がいたとして…「ハリー・ポッター」の映画だけに関して、どっちが詳しいかと言えば、私は女子高校生の方だと思います。

「マスター・アンド・コマンダー」の時は、私も好奇心に負けて「評論家」の文章をちょっとだけ読んだりしたのですが…「あーもうこの人全然わかってないな、はばかりながら、この映画だけに関して言えば、私の方が詳しいぞ!」…などと、何度イライラしたことか。

ほんとうは、こういう原作が有名な映画に限らず、どの映画だってそうなんだと思います。映画そのものは二時間でも、その背景には限りない世界が広がっている。もちろん、一観客として見るだけなら、その世界を知らなければならないということはない。映画だけを観て「あー面白かった」あるいは「よくわかんなかった、私の好みじゃないわ」で済ませてしまえばいいのですが。

しかし、いやしくもプロとしてお金をもらって、その映画について「評論」あるいは「解説」を書くつもりなら、読者よりその映画について詳しくなくちゃ意味がないと思うのです。原作があるなら、それを読んでいるなんていうのは、基本中の基本。

いや、でも、無理なのはわかりますよ。「ハリー・ポッター」なら一週間で読破するのも可能ですが、「マスター・アンド・コマンダー」の原作20巻を読もうと思ったら数ヶ月はかかるでしょうし。「トランスフォーマー」とかの場合、元のアニメをビデオで見たとしても、それで「その世界を理解した」ことにはならないでしょうし。

つまり、言いたいのは…「すべての映画に詳しい」ということはあり得ないということなんです。たとえ映画を何万本見ていても、ある特定の映画の知識に関しては、「他の映画はあまり観ていないけど、その映画の熱心なファン」という人にかなわない。

私が常々、「ある映画を好きな人と嫌いな人がその映画について議論したとしたら、好きな人の意見の方が絶対に正しい」と思っているのはそのためです。なんたって、好きな人と嫌いな人では知識量が違うから。

私が「マスター・アンド・コマンダー」の評論を読んだ(そしてガッカリした)ように、ある作品の「熱心なファン」の人が、「ファン以外の人」の意見を聞きたくて映画評論を読む、ということはあると思います。しかし、その時にファンが求めているのは、「評論」でも「解説」でもなく、むしろ「素人の新鮮な意見」なのです(笑)。

そこんところ、わかって書いてくれているのかどうか…いや、分かっちゃったら「評論家」なんてやってられないだろうな。わあ、我ながらイジワルだ…

この話はこれでおしまい。(多分)




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