先日、ラジオで「ドラえもん」の声でお馴染みの
「大山のぶ代」さんの話を聞く機会があった。
「ドラえもん」の声は当然、全国的に有名で、各地で開催するサイン会や握手会も、子供たちで大盛況になるお話だった。
その中で、心に残るエピソードがあった。
小学生・中学生の順で行列を作り、サインをしていた時、体の不自由な小学生の男の子が車椅子に乗って現れ、その介護人(保護者なのか医療関係者なのか或いはボランティアなのかは分からなかったが)は「体が不自由なのだから、先にサインをして欲しい」と言ったらしい。
大山さん、「みんな並んで順番を待っているのだから、みんなと同じに並んで下さい」と断わったそうだ。
するとその男の子「ウン、みんなと同じ、同じ」と言って嫌がらずに、いや、かえって喜んで列の最後尾に並んだと言う。
そして、小学生の部が終わった時。中学生達が自主的に「私たちは中学生だから、小学生は先にどうぞ!」と順番を譲ってくれたそうだ。
その男の子は自分を「特別扱い」せずに、他の子供達と同様に扱ったことを嬉しく感じ、大山さんや、周りの子供達に感謝したらしい。
今では、その男の子は成長し、就職もして自立しているということである。
大山さんとは今でも手紙のやり取りをしているとおっしゃっていた。
筆者、思い出したように記事に書くことだが、障害者を「特別扱い」することが
「差別をなくすことではない」のである。
逆に健常者とまったく同じ対処をすることが本当の意味で、彼らへの差別を解消し、真の
「無差別社会・社会参加」を促すのである。
もちろん、障害の為に出来ないことや、非効率なことはあるはずである。我々は
「その部分のみ」お手伝いすればよいのである。
例をあげて言うと、よく、車椅子の方が「我がもの顔」で道路の真ん中を走っている時がある。
「車椅子」とはいえ、コレは「交通ルール違反」である。
何か障害や問題があって右側或いは左側を通行できないのであれば、我々は手を差し伸べてお手伝いするべきである。
しかし、ただ、堂々と道路の真ん中を走っているのであればそれは
「障害者」でなく「非常識な人間」なのである。
前述の障害者だからと言って、行列の順番を守らないのと同様である。
筆者、言葉で同情するだけの
「偽善」が大嫌いだ。
相手の欠点、障害であっても、それを堂々と指摘し(バカにするのではない)その上でお互い理解を深め、思いやりを持つことが大切だと考えている。
TVやラジオの
「放送自粛用語」なんてぇのは
「さわらぬ神に祟りなし」と考えているだけで、同情しているように見えるが、
「本質の解決にはなっていない」し、かえって
「差別化を助長している」面さえあるのである。要は
「クサイ物には蓋をしろ」的な考えであって、本質を掘り下げていく「ジャーナリズム」など皆無に等しいのである。
我が国に本当の
「バリアフリー」がもたらされるのはいつになるのだろうか?。

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