友人に呼び出された僕は、一人暮らしをしている彼の部屋
(もっともメインの部屋は一つしか無かったが・・・)で一番
存在感を醸し出しているファブリックの3人掛けソファーに
やや前屈みの姿勢で心持ち浅く腰かけていた
目の前にはアンティークだろうか、所々に傷が見られる
ものの全体としては程度の良さそうな、恐らくオーク材の、
シンプルで小さめなローテーブルがポツンと置かれていた
部屋に不釣り合いな大きさのソファーの前という事もあり、
僕にはまるで踏み台か何かに思えるくらい小さく感じた
“前屈み”の姿勢で“浅く”腰かけていたのは、先程友人が
そのテーブルに紅茶と焼き菓子を置いたからだった
ほら、この「マドレーヌ」、例のあの店のだよ
白い皿には中央のマドレーヌを優しく取り囲むように、
淡く滲んだ青紫の丸い果実と羽ばたく小鳥の羽のような
可愛らしい緑と黄緑の小さな葉っぱが配されていた
先のジェラルドのファブリックによるソファーといい、
このグスタフスベリの皿といい、友人はバイト代の大半を
ミッドセンチュリーの家具や北欧の食器に費やしていた
皿の事を抜きにしても、ほど良い狐色のグラデーションが
美しい、貝殻を模したぷっくりと膨らんだ楕円のお菓子を
眺めていると、小さな子供の頃に戻ったかのように
無邪気な気持ちになってくるのだった
目の前から伝わってくる艶やかで潤んだようなしっとり感や
仄かに漂うやわらかい卵の香りは、無意識のうちに二つに
割ってみた際、そして半分を思わず口の中に入れた際、
更なるはっきりとした喜びになって広がっていった・・・
舌先を刺激する甘さとそれを包み込む卵のまろやかさ、
ふんわりとしたマドレーヌの塊を頬張りながら僕は思った
この店のお菓子はどれも最高さ・・・でも・・・
そう言えば、もう一年が経つんだっけ、
お前がこの店のお菓子を持ってきたのは?
あれから俺もすっかりこの店の虜になってさぁ、
多分、お前よりも通っているんじゃないかなぁ・・・
この友人のセリフはあながち間違いでは無かったのだ
僕はあれから数えるほどしかこの店を訪れていなかった
ましてや、この店で僕が選ぶ菓子といったら・・・
keica
その店は、栃木県宇都宮市の中心からやや外れた、
小さな駅を囲む静かな街の一角にひっそりと佇んでいた
クリームたっぷりのチョコレートムース色をした瓦屋根は、
まるでチョコレートで作った細工ように波状に重ねられて
真っ白な外観の店の上に“デコレーション”されていた
生クリームを塗った“お菓子の家”にやって来たように・・・
表の看板には“cafe”の文字が掲げられているものの、
既に“cafe”としてのkeicaは終了しており、一年前の・・・
ちょうど今頃からテイクアウト専門のお菓子屋になっていた
そして初めて僕がこの店を訪れたのが約一年前の
今時分、つまりこの店が“大きく変化”した頃だったのだ
その後、数回の訪問を経た約半年前の夏の終わりを
最後に、僕の足はこの店から遠ざかっていった
真っ白な空間・・・
外観から続く、ホイップクリームのようなマットな白い壁
頭上から差し込んでくる更に強調された純白の日差し
初めて足を踏み入れた一年前から何も変わる事の無い
ゆっくりと漂う穏やかな空気で満たされた静寂な空間は、
久しぶりの訪問であるこの僕を温かく迎え入れてくれた
まるで故郷に戻って来た我が子を迎える母のように・・・
心のバケツに僕が満たしたかったのは、
金とか地位とかでも、夢とか希望とかでも無く、ただ・・・
決して失われる事の無い不変の愛情、ただそれだけを・・・
叩いて直して繕ってでも・・・
でも、自分から求めていく勇気が欠けていたのか?
以前カフェのあった奥のスペースに置かれていた
木製の椅子は、現在入り口の側に並べられていた
なあ、そろそろ戻ってこないか?
皆、本当に心配しているんだぞ・・・
かつてこの場所には横長のソファーが置かれていた
そして、ソファーの事を考えるうちに、先日友人宅で
過ごした際の彼の言葉が僕の脳裏に蘇ってきたのだ
椅子を挟んだ入り口の向かい側は古い箪笥をリメイクしたと
思しき焼き菓子を陳列する棚があり、数種類の焼き菓子が
陶器やブリキの缶に入れられてゆったりと配置されていた
入り口の“白い”空間とは対照的に薄暗い“黒の”空間が、
ひと続きの小さな店内の半分を支配しているようだった
この相反する二つの空間が違和感無く存在している
この場所は、僕を不安にさせるばかりか、この上なく
落ち着きと安らぎを与えてくれるのだった・・・
白と黒の調和は、空間だけではなかった
窓際の棚の煤けたケーキの型や奥に見える漆黒の鉄瓶
その手前にはお菓子を乗せた陶器の器が白く輝いていた
“彼”が勇気ある一歩を踏み出して大空へと羽ばたく
決心をしたのは、昨年の夏の終わりの事だった・・・
ちょうど僕が自分の殻に閉じ篭ってしまう頃の話だ
“彼”とはひょんな事から同じ屋根の下(隣り部屋)で
暮らす事となり、ほぼ唯一の気のおけない仲間として、
かけがえの無い2年間の苦楽を共有してきた
その“彼”が自身の大いなる夢の為に一大決心をし、
この街から去っていく事に対して、僕は温かく見守る
ふりをするしか出来なかったのだ・・・
そう、“彼”、Cが変わってしまう事に・・・そして・・・
もし十字架が愛する人の苦難や死からの解放を意味する
なら僕は迷わず十字架のしるしを切るであろう・・・でも・・・
今、僕が抱いているこの気持ちは誰が解放してくれるの?
店主のご好意で、奥のスペースを見せて貰う事になった
これ自体、非常に歴史を感じさせる枕木のような台の上に
丁寧に並べられた大小の器たちは、まるで羽を休める為に
この枕木に止まりにやって来た白と黒の鳥達のようだった
時代を、そして国を越えて此処にやって来た美しい鳥たちは
束の間の休息の後、また新たな地へと飛び立ってゆくだろう
それに比べて僕ときたら・・・
フッと窓の外に目を向けると、鍋がぶら下がっていた
皆とはぐれ、寂しそうに一人ぶら下がっている鍋に
この時僕は、今の自分を重ね合わせていたのだった
店の方に戻ると、ショーケースの中には既に先ほど
オーダーしていたケーキが可愛らしくラッピングされていた
チョコを使った生菓子と・・・
季節の果物のタルトは、立ち寄る度に購入する品だった
でも、先に言ったように、僕にはこの店に訪れると
必ず持ち帰る焼き菓子があった
「ドリフ」
この、陶器に盛られた真っ白の菓子を見つめていると、
仕込みにひと段落着いた店主が僕の話に付き合ってくれた
このお菓子は僕が初めてこの店を訪れた時から
毎回必ず購入している、大好きなお菓子なのです
でも不思議ですね、このお菓子は他のお店では
あまり・・・いえ、全く味わった事が無いのです
どこにでもあるシンプルなお菓子に見えるのに・・・
この僕の問い掛けに、店主は静かに答えるのだった
実はこれは母から授かったレシピなのです・・・
あぁ、やはり店主も本当に大事なモノは変わる事無く
ずっとずっと守り続けているのですね・・・
変わらないことの大切さ
伝えていくことの素敵さ
守っていくことの難しさ
続けていくことの尊さ
・・・・・・
このような言葉が僕の頭の中を占めていた瞬間、
店主は更に一言だけ、僕に伝えたのだった・・・
そして、そのレシピに私なりのアレンジを加えて
この「ドリフ」というお菓子は完成しました・・・
この言葉に僕は何も返す事が出来ず、ただ俯いていた
「金柑のタルト」
白と黒が支配するあの空間に明るい彩りを
添えていたのは、この鮮やかな金柑の山吹色だった
模様のように黒く縁取られた表面の焦げた端っこが、
自然に、それでいて絶妙なアクセントにもなっていた
ぷちっとした金柑のフレッシュな爽やかさといったら・・・
しかも、口に含んだ際に広がるねっとりとした感触と、
思わずキュンとなる酸っぱさなのだから!!
その切なくなる気持ちを優しく受け止めてくれるのは、
仄かなサクサク感にしっとりとした柔らかさのタルト生地
粉と卵のまろやかな甘さが金柑をギュッと抱きしめていた
「ムースショコラ・オ・フランボワ」
オニキスのように黒く輝く艶やかな表面は、
ひんやりと、そして、とろりとした甘さを伝えていた
でも、その薄いグラサージュの中には
たっぷりのチョコのムース・・・そう、あの屋根の色だ
ふんわりとした口溶けのムースはビターなチョコが
クリームのまろやかさと溶け合って一体になっていた
しかも、後からフランボワーズの甘酸っぱさが
広がってきて、更にハチミツの甘いクリームまで・・・
まるで木莓畑に蜜蜂が遊びにやって来たかのように
“白い”パラフィンに包まれていたのは“黒い”塊・・・
ブランとノワールの世界・・・まるで此処のように・・・
「70%ショコラ」
あぁ、そう言えば世間ではこの時期チョコを贈るんだったね
表面を覆っているチョコの粉は軽く触れただけで
ふわっと舞い散って・・・まるで“あれ”のように・・・
そして、チョコの粉の中から所々見え隠れするのは、
岩肌を思わせるゴツゴツした質感の焦げ茶色の塊
ボロっと崩れるそのカケラを口の中に放り込むと・・・
見た目からは想像出来ないくらいの滑らかなチョコ
その、儚くとろけていくチョコの塊から、
同時に広がるほろ苦いカカオの濃厚な風味に・・・
心地良く口の中を刺激するのは、何と塩のしょっぱさ!!
全く、この店のお菓子ときたらこの“70%の驚き”と言い、
・・・“あれ”と言い・・・
「ドリフ」
僕がキミの虜になったのは、幼い頃に感じていた
母さんの甘くやさしい香りと同じだったから・・・
何時でも、何時までもキミに会えると思っていたから・・・
そう、決して変わる事の無いキミに・・・
まず何と言ってもふんわりとした甘さで包んでくれたね
それにまろやかな優しさだっていっぱい感じる事が出来た
優しさに甘えていると、時にはピリッと辛い側面や
むぎゅっとした食感でキミは僕を驚かせるんだよね
あと、口の周りを白い粉だらけにした時は本当に楽しかった
キミといると笑顔が絶えないんだ
だから、だから僕は何時までもキミと一緒に・・・
加速していく変化への不安、迷い、寂しさ、悲しみ・・・
そうしたモノに僕はついて行けずに拒んでいた・・・
その先の一歩が踏み出せずにいた
大空に飛び立つ事が出来なかった
そして、閉じ篭っていたんだ・・・
大きな変化を遂げてから一年、この小さなお菓子屋が
新たな変化に向けて一歩を踏み出そうとしている早春
でも、初めて訪れた一年前と何ひとつ変わることなく、
まるで全てを包み込むかけがえの無い母の愛のように
此処でしか味わえないかけがえの無いレシピと共に・・・
「ドリフ」を食べ終わった僕は友人に電話をかけた
なあ、来週からゼミに戻ってもいいかい?
keica
栃木県宇都宮市吉野2-5-8
028-632-5839
木曜日 14:00- / 金・土曜日 12:00-
定休日 日〜水曜日
(営業時間・定休日はHPを参照して下さい)
http://gateau-keica.jugem.jp/
次回のCindy日記は・・・
昨年末、宇都宮にOpenしたパン屋さんに行ってきました♪