あれから僕も歳を取ったし、
新しい仲間も沢山増えた
常に心掛ける無駄の無い生活
計算し尽くした将来のヴィジョン
でも、今ここで送っている最良の日々は、
死の直前に思い描く走馬灯には含まれない
私がこの場所を訪れた訳は此の地が彼を、そして
彼の造り出す目眩く世界を知るきっかけとなった
思い出の場所だったからである事は既に述べた
しかし、更にもう一つ、
ここに来れば彼に会えるような気がして・・・
彼の方から私の所にやって来てくれるような・・・
“甘い”香りいっぱいにカフェやパン屋を紹介し続けた彼が、
自身の日記のポリシーを曲げてまで強い拘りを示した、
“辛い”香りが仄かに漂う細く寂れた路地の一角に・・・
がらんとした店内に一列に吊り下げられた裸電球の傘
電球から発せられるフィラメントの熱が淡い蜜柑色と
なって辺りの壁を緩やかな暖色に照らしていた
懐かしさより先に安らぎを感じる事が出来た私は
これまで抱いていた諸々の不安や緊張といったものが
身体の端々からす〜っと抜けていくのに気付いた
ミディアムグレーに塗装されたスチール製のテーブルや
所々剥げ落ちた白い天板の一人用の古びたデスクは
どう見てもダイニング用とは言えない代物であったが、
プライウッドのチェアーと共にこの空間に似合っていた
お世辞にも広いとは言えないこの店内に於いて、
これらは非常にゆったりと配置されているようだった
気兼ね無く寛ぐ事が出来る空間は、彼が日記の中で
最も注意を払っていた部分でもあったが、その点では、
この店は周りにいる人や二人の店の主人に至るまで・・・
本当に絶妙のバランスで距離を保つ事が出来たのだった
流石に外の眩しい日差しは直接建物の中にまでは
入ってはこなかったが、コンクリートの床の表面の様子を
映し出すには十分であり、微妙な濃淡を作り出していた
足先からひんやりとして硬い感触が直に伝わってきたが、
足を着けていると逆に冷たい緊張が解れてくる気がした
テーブルと厨房を分け隔てる存在感のある棚の上には
香辛料の瓶がずらりと並び、その手前には割れた硝子や
使われる事は無いであろう縫い糸、更には銀盤のトレーに
丁寧に並べられた腐食した道具類が折り目正しく配置される
カレー屋にとっての宝である香辛料のすぐ側に、
慈しむかのように丁重に扱われたオブジェ達・・・
そう言えば、彼はこの物達に優しい言葉を囁いていた・・・
これまで外の世界で皆に舌打ちされながら
乱雑に扱われ廃棄されてきたであろう物達に・・・
私は貴方を照らすために生れてきたの
私自身が輝く事は、決して無い
貴方の輝く姿を間近で眺めながら
私は黒ずんで、朽ち果てていく
でも、私無しでは・・・貴方は色白の役立たず・・・
オレンジ色の球体が二つ、落ちそうで落ちない
絶妙のバランスを保ちながら盆の上に乗っている
その下にはまるで湖面に映し出されたかのような
正確さで此方へと伸びる二つの黒い影
その影と背景とを切り取る境界線のくっきりとした事
そして、黒い影にうっすらと色づくオレンジ色・・・
ざらついた球体は柑橘本来の鮮やかな色彩を失っていた
何時だったかドラえもんで読んだ、のび太と影とが
段々と入れ替わっていく話を思い出して少しゾッとした
彼の日記にはよくこの丸いストーブが登場する
やかんを乗せたり、手を差し伸べたり、
最新の暖房器具には無い心地良い親近感と、
その近さの為に身をもって教えられる火の怖さ
その両方を直接肌で感じる事が出来るのだろう
店主に促された私は一人という事もあって
一番壁際の、木製のテーブルに着く事になった
薄い板を貼り合わせた座面によるこのチェアー
艶かしさすら感じさせる曲線と適度な弾力のある
ほど良い厚みのクッションにに包まれるように
腰を掛けた私はテーブルの周りを物色し始めた
私が着いたテーブルは奥行きの割にやや横長になっており、
チェアーは二つあったものの一人用の事務机だと感じた
使い込まれた柔らかく滑らかな木の感触が非常に心地良く、
入って最初にランプを見た時以上に安らいでいく気がした
そして、テーブルの上には唯一目の前に
ポツンと置かれた古びたアルマイトの缶
さらに、その缶ですら持て余してしまうように
スプーンが一つ入っているだけだった
唯これだけだが、カレーに対する並々ならぬ情熱が
この巨匠作のスプーンから強く伝わってくるようだ
私の着いたテーブルの脇には小さな本棚が備えてあり、
例にもれず、私もそこから気になった本を取り出した
本当は彼の選んだ本を選びたかったが見つからなかった
この空間で彼が手にした同じ物を触れたかったのだが・・・
紐を指にかけていく、唯それだけの遊び
指の付け根は痛くなるしイライラもしてきそうな
単純な遊びの向こう側にあるシンプルな奥深さと
形になった瞬間に沸き起こる何とも言えない喜び
そして、その次の瞬間、また一本の紐へと戻っていく
・・・まるで夢から覚めるように・・・
この店には週替わりのカレーと、ドライカレーと、
二つしかメニューは無かった
ドライという言葉は私には似合わなかったし、何よりも、
彼が食べたカレーを私もオーダーする事に決めていた
大きめの円い平皿に山盛りになった真っ白なご飯と
更に高く積み上げられた薄黄色の千切りキャベツは、
平面で単調になりがちなカレーのヴィジュアルに
さり気無い変化を与えてくれていた
それは勿論、ヴィジュアルだけの事では無かった
スープとルーの中間とも言うべきサラサラのカレーは、
それだけでも、そしてご飯と一緒でも十分に楽しめる
スパイシーな辛さともマイルドな柔らかさとも異なり、
シンプルな味わいの中に複雑な香り、風味、味が感じられ、
あたかもこの店の、この路地全体を象徴しているようだった
鶏の挽肉は思ったより大きめの塊状で、肉の食感と旨みが
十分に感じられたし、里芋のねっとりとしたホクホク感や
エリンギのぐにゅっとした歯ごたえの妙も素晴らしかった
今まで体験した事の無い、盛り付けとカレーと具材・・・
楽しい物好きな彼が放っておかないのも無理は無い、か・・・
私は追加でゆでたまごを添える事にしたが、
ほど良く茹でられた卵はややかための半熟といった感じか
形を留めようと必死の白身から抜け出そうとして
形を変えてそこから溢れ落ちていくどろっとした黄身
変化を求めるモノと、それを阻止するモノ
・・・夢は終焉を迎えようとしている・・・
口直しとか食後の〜とかで片付けるにはあまりにも惜しい、
爽やかなマンゴーの風味とマイルドなヨーグルトの酸味
とろりとした舌触りがフルーティーでトロピカルな風味
いっぱいに口の中に広がっていく、この飲むスイーツは、
刺激的なカレーに馴れた私の五感をゆっくりと癒してくれる
・・・微睡んでいるかのように・・・
此処での永遠にも感じられたほんのひと時を過ごした私は
彼との出会いの、そして思い出の地に別れを告げる直前、
店を振り返りながら心の中で彼に囁いてみた
Arnold、これまで本当にありがとう
貴方に会うという私の想いは
遂に叶う事は無かったけれど・・・
貴方が歩いたこの路地を歩き、
貴方が過ごしたこの空間に
私もその身を置く事が出来、
貴方が口にし日記に残した
カレーを食しただけでも・・・
私は非常に満足しているのよ
そして・・・そして・・・
家に帰るとすぐに私はパソコンのスイッチを入れた
お気に入りの中からすぐに「Arnold日記」を見つけ、
右クリックを押した私は、躊躇う事無く・・・
“削除”にカーソルを合わせ、右手の人差指に力を入れた
そして私は、眠りから覚めたかのように立ち上がった
それは長い眠りのようであり、一瞬の転寝のようであり、
ほんの些細な一部分に驚くほどの印象を受けながらも、
何か非常に重要な、核心的な本題の記憶が曖昧なまま・・・
そう、暫くの間、私は眠りについていたのかも知れない
m・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・o (ある街のカレー屋さん)