鹿児島は歴史的に悲しい過去を持つ土地でもあります。昨日書いたように、明治新政府に反抗しながら最後に悲しい結末を迎えた西郷隆盛。太平洋戦争末期、沖縄に向けてたくさん出撃し、二度と戻らなかった『神風特攻隊』。
そして、僕にはなんだか、これらとドン・キホーテが妙に重なるのです。鉄砲と大砲の時代に槍や剣を振り回し、そして悲しい最後を迎えたドン・キホーテ。
劇場周辺の史跡を巡りながら、時代に逆らいながらもおのれの信じる道や、自分にとってのかけがえのないものを守る為に命をかけた若き薩摩武士や、青年達を想うとなんだか胸に切ない何かを感じます。
さて、今日は最後に『西郷隆盛終焉の地』の画像をお送りして『その時、歴史は動いた』、皆様とお別れしたく思います。今日もどうもありがとうございました。
〜劇場のそばにある『歴史と文化のみち』。130年前、西南戦争の激戦区となったこの通り沿いには現在では市立美術館や、県立図書館、鹿児島城跡が立ち並び、歩道の脇の整備された水路を泳ぐ色とりどりの鯉が今の鹿児島の平和を象徴しています。しかしその通りの数百メートル先の石垣には西南戦争時の銃弾の跡が、今でも残っており、当時の戦争の凄まじさを今に伝えています。
そこからさらに数百メートル先の一本の木の下に『西郷隆盛終焉の地』があります。腰と太ももに銃弾を受け、歩行困難になった隆盛は、そこで側近の『別府晋介(べっぷしんすけ)』に自分の首を刎ねるよう頼みます。
隆盛の遺体を発見した明治新政府軍総司令官であり、後の陸軍大臣『山県有朋(やまがたありとも)』はこの時、敵である隆盛の遺体に対し
「あなたは真の天下の豪傑だった。ただ残念なのはあなたをここまで追い込んだ時の流れだ。」
といつまでも黙とうを捧げたそうです。
現在、この跡地にはそれを説明する案内板が立てられ、外国人旅行者にも分かるよう英訳が添えられています。そしてその案内板の冒頭には隆盛が別府晋介に対して言ったとされる最期の言葉がこう書き記されています。
【SHIN,MY FRIEND,THIS IS AS FAR AS I GO.(晋どん、もうここらでよか。)】〜
ナレーションイメージ:NHK松平アナ


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