「俺、今日の演技、自分では全然ダメだわ。」
と言う声を時折、楽屋で聞く。逆に
「今日の俺の芝居、ちょっと良くなかった!?」
なんて聞かれる時もある。
しかし、僕は思う。果たしてこの人達は何を基準に自分の芝居が良かったとか、いまいちだったとか、判断しているのだろう。確かに演じてて、今日は少し舌が回らなかったとか、声が裏返っちゃったとか、なんだか体調が思わしくなく、テンションが低かったような気がする、というような時はあるが、自分が調子良く感じた日の芝居が必ずしも周りから見てよい演技だったと判断されるとは限らない。逆もまた同じ。だから僕は自分の芝居の出来不出来はあまり考えない。それが良いことか、悪いことかは今の自分には分からないが…。ただ一つだけ分かってる事がある。それは…
毎日こう、芝居が続くと、役者にも例えば大きく分けて二つに分かれる気がする。半年間、寸分違わぬくらいに同じ芝居を最後までやりとげる人と、日によって芝居を変える人。僕は今まではあまり芝居を変える人間ではなかったのだが今回は極力変えるように努めている。芝居を変える人の中には「毎日同じ事やってると飽きてくるから。」とか、本番中に調子にのって、ノリで変える人、色々あるが、こっちは毎日同じ事をやってても、観る方は初めてなお客さんばかりである。敢えて変える必要はない。
じゃあ何故僕は変えるのか。それは決して飽きたからではない。自分の芝居の出来不出来は分からないとさっき書いたが、ただ
【自分の演技が半年間キープし続けなくてはならない程の高いレベルに達していない気がするから】
である。これは確かな気がする。僕が自他ともに認めるような100点満点の芝居が出来ている天才なら、その100点を半年間維持し続ける事に全力を尽くせばいいかもしれないが、どっこい!今の僕は悲しいかな、そうではないであろう。
今よりもっと良い演技がなかろうか?もっと良い表現がなかろうか?そう思って変えてみた。しかし思い返せばただ、セリフの言い方を変えただけじゃないのか?言い方ではなく、もっと深い変え方があるのではないか?でもそれが何なのか、どうすれば良いのかは分からぬ。
僕が演じてる『床屋の親方』は劇中に名前を呼ばれる事がないので、お客さんには分からないが、『ニコラス』という名前がある。僕はニコラスさんの気持ちを無視した、ただ『鎌倉太郎』が目立ちたいだけの演技になってはしないか?原作の『ドン・キホーテ』の本の中でニコラスさんが
「鎌倉よ、俺ってそんな奴じゃないぜ。」
って泣いてやしないか。
明かりを消した真っ暗なホテルの部屋のベッドの中であれこれ考えるが、才能乏しい僕にはよう分からん。もともと、答えなんてないだろうしな…。


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