さてさて今日は移動日。今回向かうは中国地方最大の街、広島である。
広島駅からタクシーで10分程行った所に宿泊するホテルがある。そんなホテルから見えるのがかの有名な…
原爆ドームである。
本物を見るのは実は初めてじゃないかな。眼前にそびえる65年前の惨劇を伝えるこの廃屋は圧倒的な存在感である。
今や周りは高層ビルでおおわれ、カフェテラスで食事やお茶を楽しんだり、散歩を楽しむ人であふれかえっているが、確かに確実に65年前の夏、ここが地獄と化した事は忘れようのない事実なのである。
ドームを見上げる。この上空600メートルで炸裂した原子爆弾の火の玉の温度は破裂した瞬間は30万度にも達したと聞く。本当に小さな太陽である。
ドームのそばを流れる川。そこは当時、水を求めた人の死体であふれていただろう。
平和記念資料館に入る。この資料館は東館と本館に分かれており渡り廊下でつながっている。
入口は東館。入ると明治から始まった広島市の歴史や原子爆弾が開発され投下が決まるまでの『マンハッタン計画』のいきさつ、今、世界が保有する核兵器問題に関するパネルや映像が流れている。館内には制服姿の中高生や、外国人の方々も多い。
学生さんや外国人の方々、他の来館者、資料に目をやりながらあれこれとおしゃべりしている。
「いやぁーだぁ…」
僕の前を歩いていた女子高生らしき二人の女の子。見ると本館に入る入口は廃墟と化した当時の広島を再現した瓦礫の通路になっている。
本館は遺品や被爆資料の展示コーナーである。
地獄と化した広島を再現したジオラマ、そのジオラマに立つ大火傷をおった被災者の蝋人形。黒い雨の染み込んだ壁。ボロボロになった学生服。熔けてはがれた皮膚や爪。炭のように焼け焦げた被爆者の写真。原爆障害に苦しみながらもついに力尽きた被爆者の折った小さな折り鶴…。
それを見ながらある異変に気付く。
無音なのである。東館ではあちらこちらで聞こえたおしゃべりが本館では消滅している。聞こえるのはハンカチを通しての鼻をすする音だけ。これらの遺品はここに来る全ての人の言葉を奪う力を持っているのである。はしゃぎ盛りの小さな子供まで言葉を失っている。無論、僕も。
出口が近づいた。どっと押し寄せる疲労感。外はもう少しで暗くなり始める頃だ。出口付近、最後の展示が…
『被爆者の描いた原子爆弾投下直後の広島』
の画。素人の方々の描いたそれらの画は勿論、決しておせじにも上手くはない。しかしおぞましい。ある意味、写真や映像より恐ろしさを感じるのは何故だ。その筆のタッチ一つ一つに怨念や苦しみがこめられているのか。
燃え盛る炎の中、倒壊した家屋の下敷きになって逃げ出せない家族を描いた画がある。助けようにも助けられない下敷きになった家族の画の横には
「タースケテクレー。タスケテクレー。タスケテクレー…。」
といくつもの『タスケテクレ』が書いてある。
隣にはどこかの死体置場であろう。沢山の死体や頭部のみの死体が粗いタッチで沢山描いてあり、画の中に説明書も書かれている。
《ここに死体の山。ここに頭。ここにも頭。ここには頭三つ…》
その画の左隅、こう書いてある。
《どんなに描いても、どんなに話しても、万分の一も伝えられません。嗚呼、生き地獄。》
絶望的な苦しみの中、この世を去った被爆者達。あなた達の目に映る今の僕らの平和はどう見えてますか。


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