遠い昔の話。この国が豊臣秀吉という人間に支配されていた頃、伝説的な茶人に『千利休』という人がいました。お茶の作法のみならず茶碗や壺などの器を鑑定する一流の鑑定士でもある千利休が一言、
『これは良い出来ですな。』
と発すると一瞬にしてその茶器は何千万、時には何億と言われる値がついたそうです。
そんなある日、とあるお殿様が自慢の家宝の鑑定を利休にお願いしました。我が家の家宝は一体何千万?いや、もしかしたら何億の価値があるんだろう、と期待を胸に。
『して、利休殿!我が家宝、いかほどの物や?』
『(利休)大変申しにくいが、大した器ではござりません。』
『な!なんたる事!』
自慢の家宝をコケにされたお殿様は悔しさと恥ずかしさのあまり、その器をひっつかむや、庭石めがけて投げつけます。器は木っ端みじん!
これを見ていた家来達、一瞬の怒りの為に粉々にされたその器を不憫に思い、その散らばったかけらを出来る限り拾い集め、のりでくっつけます。しかし家来達の一生懸命の努力をもってしても出来上がったのはあちらこちらの欠けたひびだらけの壺。
その時、
『これは!これは!なんたる見事な器!まさしく名器!』
そう言ったのは誰でもない千利休。先ほどまでの形のキレイな器ではなく、至るところが欠けてひびだらけで不恰好になってしまったこその美しさが実に素晴らしい!と。粉々になる事でかえってその器は名器の評価を受けたのです。
そして僕はとある近所の良心市で野菜を見ている。品質は申し分ないのに形が曲がっているというだけで『訳あり商品』として安売りされているキュウリ。
(利休さんが生きてらっしゃったら迷いなくこのキュウリを選ぶんだろうな…)
なんて思うのである。ただ誤解してはいけないのは何も利休さんは『不完全』で『不恰好』な物を求めた訳ではなく『完璧』で『美しい』物を誰よりも誰よりストイックに追い求めて求めて求め抜いた挙げ句に到達した『利休的完璧』が凡人から見たら『不恰好』に見える物だった、と言う事なのかな。
もしかしてこの『不恰好』さが『色気』と言われるものの正体なのかな、なんて野菜を見ながら思った僕でした。

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