「「悪」としてのアメリカ〜アニメーションと「反米」」
戦闘美少女文化

イラク情勢で手詰まりの状態にあるとは言え、アメリカ合衆国は世界最大の経済力と軍事力を有する覇権国家であるという点に関して疑問の余地を挟むところ小さい。米国と言う国家は、大国となって以来「敗北」を抱きしめた事のない国家である。屈辱的な撤退となったベトナム戦争も、米国自身がベトナムの軍靴に踏みにじられた訳ではない。米国がベトナムの泥沼に塗れながら、人類を月に送り込んだほどの余力を持ち合わせていた国であるのは事実なのである(そして同時にソ連との冷戦も戦っていた)。
強大であり、映画、スポーツ、世界中から集まる人的資源その他諸々のソフトパワーにも支えられた米国は人類史に残る一大「帝国」である。しかし、強大であり、その力を世界の警察官として「善意」に振舞おうとする為に世界から反感を買っていると言うこともまた事実だ。それは米国の忠実な同盟国である我が国でも同様である。
テレビ局は放送法の名の下に公平中立な報道を行うことが義務付けられている。これは新聞等の紙面メディアよりも厳しい規制であるのはあまり知られていない。これはテレビ局が電波という公益を使用しているからに他ならない(テレビの周波数帯は限られている)。しかしながら、視聴者はテレビ局が中立的な報道等を行っていない事を感覚的に知っている(厳密には公正中立等存在し得ないのだが)。NHKは事実を淡々と報じているように思われるが、解説員による世論誘導を行うし、様々な番組では政府への挑戦的内容を行うこともある。テレビ朝日系列やTBS系列がどちらかと言えば反政府的な言動が多いことも知られているし(昔風に言えば「左」寄り)、日本テレビ系列とフジテレビ系列は政府の方針を支持する報道が多い(昔風に言う「右」寄り)。
この感覚的前提の上でこのBlogの分析は進行していくこととしたい。今回の題材はTBSが放送しているアニメーションに関してである。近年のアニメでは「機動戦士ガンダムSEED」、「機動戦士ガンダムSEED DESTINY」、「BLOOD+」、「コード・ギアス 反逆のルルーシュ」等が上げられよう。無論、他にも「鋼の錬金術師」等もあるがここで先に列記した作品には共通点が存在している。それはエンターティメントであると共に背景設定に政治色を色濃く投影している点である。
「機動戦士ガンダムSEED」シリーズは監督が現在の国際政治情勢も加味していると述べるように反米を意識した内容であった。核兵器の先制使用を行う地球連合軍、その中核を成すのは大西洋連邦である。ワシントンに首都を持ちホワイトハウスに鎮座する大西洋連邦大統領の背後には、軍産複合体の姿が垣間見えた。これを核先制使用をも記したブッシュ・ドクトリンの米国として見ないものは余程度量の広いものだろう。軍産複合体が現実の政治へいまだどの程度関与しているのかは議論の分かれるところであるが、第二次湾岸(イラク)戦争時に囁かれた米国政府上層部とカーライル・グループをイメージしての事であろう。続編の「DESTINY」では大西洋連邦は日本を模した国家とされる中立国オーブへ軍事同盟「世界安全保証条約機構」へ加盟させ戦時派遣を行わせる(派遣軍は最終的に壊滅する)。これも自衛隊のイラク派遣をモデルにしたものであり、イラクへの自衛隊派遣は派遣自衛隊員への死傷者と日本へのテロの増大をもたらすとした当時の反米型知識人の意識を投影している(周知の通り、派遣期間中国内でのテロ事件はなく、陸上自衛隊は全員が無事に任務を終了している)。
「BLOOD+」では米国が紛争を誘発し米国による軍事介入を行う口実を作るために人間を吸血鬼化させる薬品D67の開発に協力している設定になっている(その計画の統括者である眼鏡をかけた国防長官は、明らかにラムズフェルド前国防長官であり、色黒の国務長官がライス国務長官であるのは明白だった)。話の始まりは沖縄、その次はベトナム…。沖縄ではヒロインの上空を米軍のB52戦略爆撃機が過ぎり、ベトナムで知り合った少女はベトナム戦争中の不発弾で足を怪我していた。それらは、米国の「悪」なる存在を示す記号であったと言えるだろう。
そして、今年10月より放送が開始された「コード・ギアス 反逆のルルーシュ」には自由と民主主義を標榜する国家として「米国」は登場してこない。日本へ侵攻しエリア11として占領する超大国は貴族主義と絶対競争を標榜する神聖ブリタニア帝国である。ブリタニアの名の通り英国に連なる国家であるが、その地理学的所在はアメリカ大陸にある。ストーリーは主人公がブリタニアの打倒を目指していくというところにある。占領された日本、その中で安寧を享受しようとする日本の姿が、戦後日本の姿を仮託していないと考えるほど素直な人間もこの国には少ないだろう。ただ、「コード・ギアス」は従前の作品群とは異なる点があるとすれば「反米」の要素があったとしてもその要素が「右寄り」である点だろう。米国同時多発テロ事件まで米国への日本人の意識は大別すれば「右」か「左」によって規定されていた。「右」は米国を自由と民主主義の所与の存在として支持した。「左」は米国とは米帝国主義であり糾弾すべき存在としていた。つまり、冷戦時のイデオロギー対立の素地で米国への意識を推し量ることが可能であったとも言えよう。しかし、第二次湾岸戦争でその構造に変化が生じた。「右」が日本の独自性を主張する一派(愛日右派)と米国を利用する一派(用米右派)に分派したのである。愛日右派は米国への「追従姿勢」を批判した。米国からも独立した日本を彼らは求めたのである。米国から独立した上で、日本式の自由と民主主義を定義することこそが「正義」とされた。
この構図が「コード・ギアス」には色濃く投影されている(但し、同作品は現在進行形であり内容が変化していく可能性は十分にある)。イデオロギーとして消え行く古式ゆかしい左寄りの反米から愛日右派の「反米」へ。アニメーションと言うストーリーを通して次世代の日本人になるであろう者達へ示される国家、英雄、社会のあり方は「反米」という方向で集約されてきている。

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