
TBS系列で10月より放送が始まったアニメ「コードギアス 反逆のルルーシュ」は、一般には日本ロボット作品界の雄サンライズと人気漫画家CLAMPとの共作と言うことで注目を浴びている作品である。その半面で、その刺激的な背景設定にも注目が集まっている。本作の背景となる世界は現在の北アメリカ大陸に本拠を置く神聖ブリタニア帝国によって占領・支配された日本を舞台にしている点にある。本作品を視聴してない人の為に分かり易く世界観を記載すると、人型戦闘兵器ナイトメアフレームを装備したブリタニア帝国に侵攻された日本は1週間にして壊滅。日本はエリア11とされ、日本人はイレブンと呼ばれインフラも無いゲットーへと追い込まれて生活している。方や勝者のブリタニア人とブリタニアに協力するイレブン(名誉ブリタニア人)は租界と呼ばれる地域に住み高度な科学技術と文化を謳歌している。
これらの内容を見ただけででも、分かる人にはかなり本作品が挑発的な内容であることが分かるだろう。まず奪われ国名、占領された国が国名を奪われる事はしばしばある事である。ポーランドはロシアとドイツに支配され長い間その名を名乗ることは出来なかった。ゲットーとは周知の通りユダヤ人居住区を意味し、租界とは近代中国に存在した欧米列強による都市部に置かれた一種の外国人居留地だ。そして名誉ブリタニア人とは、アパルトヘイト時代の名誉白人をモチーフにしていよう。今でこそ南アフリカのアパルトヘイト(人種隔離政策)が歴史になったが故に語られることはなくなったが、名誉白人とは日本人のことであった。アパルトヘイトは南アフリカで少数派であった白人が行った人種隔離政策だが、その対象は何も黒人とされていた訳ではない。日本人のような黄色人種も隔離の対象だったのだ(厳密には有色人種が対象だった)。この辺りはインド独立の父であるガンジーの一等車の切符を持っていたにも関わらず三等車へ追い出された有名な逸話にも在るとおりである。その人種差別の中で日本人は名誉白人とされた。それは日本が、南アフリカの産出する貴重なレアメタルを買い続けた為に、南アフリカ政府が特別に日本人を白人と同じ扱いにしたのである。そしてその現実を喜んで日本人が受け入れていたと言う現実もあるのだ。ある意味で名誉白人とは戦後日本にとって汚点とも言えるものなのだ。
そして、占領に甘んじる日本。それは現在の日本の事であるとイデオロギーに被れている人ならば真っ先に指摘するだろう。そのイデオロギーとは右も左も関係ない。日米安全保障条約の名の下で駐留を続ける戦勝国アメリカ、常に米国を追従すると批判される外交政策等々。その「占領」の中で日本は戦後60年安穏と現実を所与のものとして受け入れた。その中で手に入れたのが世界経済におけるNo.2という地位だった。
このNo.2の現実をより刺激的な仮想で示したのがこの「コードギアス」であろう。現実と違うのは国名が奪われず、米国人が幅を利かすことも無く(米軍基地問題は議論を別とさせてもらう)、日本人全員が実質的に「名誉アメリカ人」であるのでその差異に気付かないという点位かも知れない(もっとも、近年の勝ち組・負け組を米国風の競争社会に加わった者と加わらなかったものという意味で反映させることは可能なのかも知れないが、それは深読みのし過ぎであろう)。しかしながら、何故今になってNo.2であるこの現実に不満を日本人は感じるようになったのであろうか?少なくともこのNo.2という地位によって我々は今日の享楽を甘受出来、それが明日も続くであろうと予想できているのに。ましてや、今の日本に米国と純粋な意味で戦った世代は齢80を超える人々であり、少子高齢化社会とは言えども少数派である。しかも、アニメーションと言う一番現在の地位を享受している筈の若者文化にその傾向が表れているのは不思議な点だ。
この謎を解く鍵は「正義」というチープな言葉にあるのかも知れない。その分かり易い一例がALIPROJECTの歌うEDテーマ「勇侠青春謳(ユウキョウセイシュンカ)」だろう。内容が極めて愛国的なこの歌は本作品の「正義」が愛国にある点に疑う余地を持たせない。もっとも、この作品にとっての愛国とは「日本人による日本国の独立」ではないようだ。暴力による外発的革命を断行しようとする黒の主人公ルルーシュはブリタニア人であり、日本人ではない。内発的革命を考えるスザクは名誉ブリタニア人であり、「日本人による日本国の独立」においては正統性に疑義が持たれる事になる(理由は魂を敵に売り渡したものに「正義」を名乗れるのかということだ)。つまり、この作品自体はどちら側の立場に立って見ても日本人に純粋な意味での「独立」を付与することにはならないのである。
では何故、刺激的なこの内容を今、アニメ化する必要があったのか?それは現実世界においてNo.2という安穏に曇りが乗じてきているからに他ならない。経済的に台頭し始めた中国、少子高齢化によって押し寄せる国力低下の危惧。この二つの要素への危惧は若年層になるほど大きい。近年になって社会の右傾化が指摘され、それが若年層における思想的右傾化にあるとも主張される。確かに1960年安保、学生運動に見るまでも無く若年層のイデオロギーは社会主義的な傾向が戦後は強かったことが事実である。しかし、No.2の安寧を知ってしまった現代の日本人にとってそれを失うことは危機に他ならない。だからこそ国家と言う社会構造の上位体へ期待を寄せるであり、それが右傾化のように見えているのである(それは左翼が反政府であったことにも起因している)。
第二次世界大戦による敗北、米国の占領がなければ、日本は国際社会において「凛として」君臨できていたのではないのか?そのIFが米国に裏打ちされたNo.2の現実が不安に晒されたが故に生まれ、そのIFに夢を仮託しようとしているのではないだろうか。日本の敗北と米国の占領が現在の日本に影響を与えていないと言うことは無い。しかしながら、その影響が現在日本にどれほどのものをもたらしているのだろうか?60年を経過した現在において例え米国によって所与のものとされたものであっても、それは既に我々の意思になっているとも言えるのではないだろうか。現状に不満は根元を絶てば解決できる訳ではない。問題とは根元にも幹にも枝葉にも存在しているからだ。「コードギアス 反逆のルルーシュ」それはこの国の若年層が求めていたIFなのかも知れないが、それがあくまでIFでしかないという事実だけは理解しておかねばならないだろう。

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