三陸を訪問(2) 紀行
予備自衛官の訓練を終えてその日は岩手県久慈市に泊まることにしました。途次、ウミネコの繁殖地として有名な八戸の蕪島に立ち寄ることに。
八戸でもかなりの被害に逢ったそうです。これは蕪島の駐車場の公衆便所です。

その駐車場にはウミネコが(実はカモメとの違いが私には分かっていません。)

久慈市に在る旧国民宿舎の窓から見た景色。美しい眺めですが、下の方では岸壁の工事をしていました。

久慈市内のお客を訪れた後、一路宮古へ。国道45号線はこの区間は殆どリアスを形成する山ノ上を通っており、海岸の様子はあまり分かりません。今までに何度か通った道です。現在は宮古市になっている田老町に至るすぐ手前に真崎海岸という場所に降りられましたので、国道からそれてみました。ここには私の知らなかった港が在るのですが、やはり打撃は大きい様です。
<壊された岸壁

海水浴客のためのビーチハウス

落石防止の金網ももう使えません

田老町に入る手前に有る標識。人口の多い集落の在る場所には全て設置されています。

高台から見た田老町市街地

今回の震災でもこの標識の地点を境に被害の有無が分かれていた様に見えました。

宮古市街地に入る直前のガソリンスタンド

宮古港も大きな被害を被った場所で、流失した建物も多かったそうです。港で働く人達の食堂も流されたとのこと。そんな中、スーパーハウスで新たに食堂が開店されていました。この時は奥さん方4人が働いていました。



本来の活気を知りませんので何とも言えませんが、宮古港は賑やかに感じました。

宮古のお客の場所は港から離れた場所に在りますので、直接の被害は免れたそうです。それでも店の前の道路には10cm程度の高さまで水が来たとのことです。自分は助かって良かったと思うが、釜石や高田の仲間のことを思うと何とも言えない気分だと言っていました。
訪問を終えて次はその釜石のお客の許へ向かいます。山田町、大槌町とニュースに頻繁に出て来る場所を通り抜けました。宮古では中心的な商業地域はそれほど大きな被害は無かった様なのですが、釜石は中心地が港のすぐ前に在り、お客の店は正面の入り口から裏庭が全部見える程に店内のもの全てがさらわれてしまっていました。その場所から通り沿いに高い所にに仮店舗を出して営業を再開したのは震災後2ヵ月後だったとのこと。
震災後で商品、材料、機材、サンプル等全てが流されてしまい、年齢を考えてみても再開することを諦めたとのこと。しかし従来のお客に加え新しいお客からも問い合わせが続き、それではということで再び営業を始めたそうです。印章業を営む人は釜石には他に無く、使命感の様なものを感じたということも話されていました。
その日は内陸の北上に宿泊です。
<続く>
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八戸でもかなりの被害に逢ったそうです。これは蕪島の駐車場の公衆便所です。

その駐車場にはウミネコが(実はカモメとの違いが私には分かっていません。)

久慈市に在る旧国民宿舎の窓から見た景色。美しい眺めですが、下の方では岸壁の工事をしていました。

久慈市内のお客を訪れた後、一路宮古へ。国道45号線はこの区間は殆どリアスを形成する山ノ上を通っており、海岸の様子はあまり分かりません。今までに何度か通った道です。現在は宮古市になっている田老町に至るすぐ手前に真崎海岸という場所に降りられましたので、国道からそれてみました。ここには私の知らなかった港が在るのですが、やはり打撃は大きい様です。
<壊された岸壁

海水浴客のためのビーチハウス

落石防止の金網ももう使えません

田老町に入る手前に有る標識。人口の多い集落の在る場所には全て設置されています。

高台から見た田老町市街地

今回の震災でもこの標識の地点を境に被害の有無が分かれていた様に見えました。

宮古市街地に入る直前のガソリンスタンド

宮古港も大きな被害を被った場所で、流失した建物も多かったそうです。港で働く人達の食堂も流されたとのこと。そんな中、スーパーハウスで新たに食堂が開店されていました。この時は奥さん方4人が働いていました。



本来の活気を知りませんので何とも言えませんが、宮古港は賑やかに感じました。

宮古のお客の場所は港から離れた場所に在りますので、直接の被害は免れたそうです。それでも店の前の道路には10cm程度の高さまで水が来たとのことです。自分は助かって良かったと思うが、釜石や高田の仲間のことを思うと何とも言えない気分だと言っていました。
訪問を終えて次はその釜石のお客の許へ向かいます。山田町、大槌町とニュースに頻繁に出て来る場所を通り抜けました。宮古では中心的な商業地域はそれほど大きな被害は無かった様なのですが、釜石は中心地が港のすぐ前に在り、お客の店は正面の入り口から裏庭が全部見える程に店内のもの全てがさらわれてしまっていました。その場所から通り沿いに高い所にに仮店舗を出して営業を再開したのは震災後2ヵ月後だったとのこと。
震災後で商品、材料、機材、サンプル等全てが流されてしまい、年齢を考えてみても再開することを諦めたとのこと。しかし従来のお客に加え新しいお客からも問い合わせが続き、それではということで再び営業を始めたそうです。印章業を営む人は釜石には他に無く、使命感の様なものを感じたということも話されていました。
その日は内陸の北上に宿泊です。
<続く>
