「戦史の群像 Vol.7 英戦艦 ドレッドノート」
軍艦
英戦艦 ドレッドノート

英戦艦 ドレッドノート
海洋王国という言葉がある。ドレッドノートという戦艦は、まさに、その名に相応しい戦艦である。この戦艦の登場以降、゛ド級゛という言葉が生まれ、ド級とは、このドレッドノートに準じた船計であるという意味になっていて、このドレッドノートの大きさや排水量などを凌駕する艦を゛超ド級゛と呼ばれるようになり、我が国の゛大和級゛などは、゛超ド級゛と呼ばれることもある。つまり、戦艦としての最後の゛完成形゛の形がドレットノートになると言っても過言ではない。

ドレッドノート 性能表
竣工年月日 1906(明治39)年 12月
排水量18.660t 全長160.6m 全幅25.0m 速力21.0ノット
航続距離6.620浬 機関 蒸気タービン2基
出力 23.000馬力
兵装 45口径30.5センチ主砲10門
7.6センチ砲27門
45センチ魚雷発射管 5門
日本海海戦の経験が生み出した究極の戦艦
蒸気軍艦や装甲艦の類いは、アメリカ南北戦争(1861年−1865年)、クリミヤ戦争(1854年−1856年)頃から登場していたが、日露戦争(1904年−1905年)で行なわれた゛日本海海戦゛の前は、大型の主砲の圧倒的な火力で船を沈めるということ見無に等しく、砲撃の命中率など上がってはいたものの日清戦争(1894年-1895年)の黄海海戦でも、日本の三景艦(松島/厳島/橋立)の38口径32センチ砲も清国(中国)海軍の定遠/鎮遠の20口径30.5センチ主砲も故障してしまい、ろくに働くことはなかった、しかし、日本海海戦では、日本海軍の艦艇による正確な射撃でロシアのバルチック艦隊に大損害を与えたことは、世界でも始めてであり、このことが後に主砲の数と砲の大きさへと繫がり、従来の戦艦の大量の副砲ではなく、大量の主砲を搭載することで圧倒すること開発コンセプトとして建造された。しかし、イタリアの造船技師ヴィットリオ・クニベルティが、1903年のジェーン年間において゛単一巨砲艦゛のアイデアを投稿していたが、イギリス海軍の結果としては、゛日本海海戦゛の戦果の影響のほうが大きい、こうしてドレッドノットは完成した。こうして登場した本艦であるが、実は砲だけが注目を集めるが、艦の推進力に蒸気タービンを使用しているために速力も21ノットと当時の戦艦の速力が18ノット程度と考えると速力も速い、まさに火の打ち所のないスーパー戦艦と言えるが、ただし、各国の後の建艦競争の激化により1910年頃には旧式化してしまい、本艦の黄金期は、わずか4年で終わり、1923年には解体されている。世界に有名を馳せた本艦もわずか20年あまりで消えたが、艦タイプの゛ド級゛超ド級という言葉だけが残るというのは、歴史の皮肉としか言いようがない。

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