第20回 菱垣廻船
前回、前々回と和船の構造をやって来ましたが、さすがに、これが続くと専門用語や難しいのばかりで、自分も参ってしまうので、今回と次回は趣向を変えて、今回と次回で2種類の弁才船を紹介したいと思います。今回は菱垣廻船です。

江戸へ向けて、大坂を出帆する菱垣廻船
大商人都市大坂と大消費都市江戸を結ぶ大動脈航路を走る花形弁才船
菱垣廻船の始まりは、元和五年(1619)に泉州堺の商人が、紀州廻船をチャーターして、大坂から江戸まで木綿・綿・酒・油・酢・醤油などを江戸に運搬したのに始まり、
寛永元年(1624)には、大坂の北浜に泉屋平右衛門が江戸積みの廻船問屋を開設し、大商人都市大坂と大消費都市江戸を結ぶ航路の定期化への道を開いた。

図 石井謙治氏
名前の由来になっている菱垣の装飾、上が通常の弁才船で、下が菱垣廻船
菱垣の御旗のもとに・・・・。
当初、この菱垣は『積荷が落ちないように舷側に竹や木で菱形の垣を造った』や『波浪防止のために船上に囲を設け、竹木を外囲を菱形に結った』という説が流れていた。しかし、上の図を見ればわかるようにそういう風にしたからと言って、頑強になるだろうか、菱垣のある位置には、普通の弁才船でも囲いはあるし、そもそも、地乗り航法が主軸の弁才船がわざわざ荒天の海を航行するのもナンセンスだし、菱垣に効果があるなら、番線や樽廻船でも使用しているはずである。
では、"この菱垣とは何か?"
これに答えを出したのが、石井謙治先生である。
石井先生は、この゛菱垣゛を装飾ということを説いている。装飾と言ってもただの装飾ではない。江戸初期において商業界に権勢を振るった株仲間に他ならない。株仲間は、同業の問屋が手を結んだ集団で、酒の株仲間、醤油の株仲間、油の株仲間などがあり、当初は、それらの株仲間が廻船問屋に船をチャーターしていたが、海難の事後処理の問題や船主の横暴と不正も出始めたため、江戸の株仲間の集合体が十組問屋や大坂の株仲間の集合体が二十四組問屋を作った、これらは゛積荷仲間゛と呼ばれるようになり、荷主の株仲間で管理運営されていた。そして、これらの船は、幕府や地方の有力大名の品物も輸送を行なうことから、御用商船という特権もあり、この菱垣は特権の象徴にもなっていた、まさに゛菱垣の御旗のもとに・・・・。゛ということで、最初は250石積みの小型船だったが、17世紀末期の元禄期には、500石積みになり、保有量も250艘に膨れ上がり一大海運勢力まで成長した。
しかし、この菱垣廻船は、1830年代を気に姿を消す。
それはなぜか? それは次回に回したいと思います。
参考文献
世界文化社 復元日本大観 4 「船」
著者 石井 謙治/石渡 幸二/安達 裕之
法政大学出版局 ものと人間の文化史 76-T/U
和船T/U
著者 石井 謙治
次回 9月中旬 樽廻船をやる予定です。

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