第3回 平安・鎌倉時代の船

遣隋・遣唐使船のジャンク形式という発展的な船が登場したにも関わらず、日本の海運の主力は、準構造船の域を出なかった。ただ推進力が、櫂から櫓に変わり、船体の周りを木で囲うようにセガイが出来、セガイと船体の間に櫓棚という櫓を漕ぐスペースもあった。つまり、少ない人数で船の推進力を稼ごうという考えと思われ、帆には、まだ布を使用することがなく、莚を使用している。そして、船体の大きな特徴は主屋形や艫屋形などの船体上に構造物も出来ている。これは、本船が年貢や貢ぎ物、国司(今で言う地方知事)の派遣などの運搬や交通機関として使用されたこと意味していると思われる。
これらの船は、日本の海岸線にそって航海が行なわれ、悪天候になれば、入り江に入り込む、地乗り航法が普通に行なわれた。航海の様子は、紀貫之の゛土佐日記゛に良く書かれていて、紀貫之自身の国司派遣の時期が、平将門や藤原純友が活躍した時代で、瀬戸内の海賊のことも僅かながら記されている。
平安・鎌倉時代の船の解剖図

この解剖図を見れば判る通り、あくまでも準構造船である。この時代、中国の交易にはジャンクが使用されているが、しかし、遣唐使の廃止により、日本人が、自らの手で船を操船して外洋に出ることはなかった。そこに日本の国が豊かだった証拠ともいえる。

平安時代に主に運搬に用いていた船だが、源平合戦や2度の元寇などにも、このように軍船としても利用されていることから、まだ、この時は専用船という考え方もない。
参考文献
世界文化社 復元日本大観 4 「船」
著者 石井 謙治/石渡 幸二/安達 裕之

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