第32回 ヘダ号(君沢型スクーナー)
震災から約半年が経ちました。ニュースを見ていると生きていくためとはいえ、東北の人々の力強さを感じますが、政治家の不甲斐無さ、税金も払いたくないですね、これでは・・・。随分、間が経ってしまいましたが、本日より再開です。今日は地震がもたらした偶然を紹介します。

安政東海地震で下田で座礁したロシア帝国海軍フリゲイト艦
ディアナ号 (ウィキぺディア 安政東海地震より抜粋)
ロシアに帰れなくなったプチャーチン
ここでまず、一つの説明をしなければならない。当時の幕末の安政年間には、1年隔てて2回関東で大地震があったことを・・・。1つは安政東海大地震、2つ目は安政の大地震であり、今回は前者の安政東海大地震と言うことになる。
安政元年(1854)年11月4日辰刻、安政東海大地震が発生、日本に外交交渉に来ていたエフィム・ワシリエビッチ・プチャーチン提督座上のロシア帝国の最新鋭のフリゲイト艦ディアナ号は、下田に投錨中に同地震の大津波に合い、船は沈没は免れたものの大損害を被った。
そこでロシア側は、幕府との交渉の末に伊豆西海岸の戸田で船の修理を行うことになったが、11月27日、ディアナ号は戸田へ曳航中に季節風に合い座礁、12月1日に沈没をしてしまった。こうしてプチャーチン提督一行は帰国する手段を失ってしまった。

プチャーチン提督一行が、ロシアへ帰国するために建造したヘダ号
(絵は同型船で、数隻造られたものの一隻で戸田と東京の石川島で建造された。)
国に帰還するために・・・。
プチャーチン提督一行は、幕府と交渉して当時の伊豆西海岸の戸田で、新造船を建造する許可を貰いました。幕府は韮山代官の江川太郎左衛門を担当者に命じて、日本人の船大工や鍛冶屋を招集し、比較的建造しやすい100tクラスの2檣スクーナーの建造を開始します。プチャーチン一行の指示の下で、ディアナ号に設計の下書きになるようなものがあったこともあって、建造は12月下旬から翌年の安政2年の3月下旬のわずか約三ヵ月で完成し、プチャーチンは48人を連れて本船でロシアに帰国、他の乗組員はドイツのグレタ号で帰国しました。

長州藩所有の君沢形スクーナー
日本に定着した造船技術?
プチャーチン一行から技術を習得した船大工や鍛冶屋の人々は、伊豆の戸田と東京の石川島の二ヶ所で数隻が建造され、戸田を含む地域の地名の君沢郡から名前を取り、゛君沢形スクーナー゛と名付けられた。この習得した技術から同系船が生まれたことは、15世紀に登場したサン・ファン・パブディスタ号(
http://navy.ap.teacup.com/kanzo/26.html)から見れば、大きな進化だと言えるが、しかし、船大工や鍛冶屋さんたちは、建造の仕方を教わっただけで、造船理論や設計法までは教わっていないという点で、ヘダ号を゛洋式船建造の始まり゛という点では、石井謙二先生は否定をしている。
だからと言って、本船の意義は無いわけではない。それは、外国人から学び、のちには、自分たちの力で同系船を建造出来る事になったということは、外国人の指示が無いと一隻も作れないサン・ファン・パブディスタ号(
http://navy.ap.teacup.com/kanzo/26.html)から見れば、日本の海事史に大きな足跡を残したことは、間切れもない事実ではないかと私の思います。
参考文献
法政大学出版局 ものと人間の文化史 76-U 和船U
著者 石井 謙二

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