第34回 観光丸
いよいよ寒くなったような、でも、なんか、冬という感じがしない。今年は天候まで不思議ですね。今回から、和船ではないのですが、日本の海事史に影響を与えた船を紹介したいと思います。今日のお題は観光丸です。

観光丸 (旧名スンビン又はズームピング)
幕府の蒸気船購入までの道のり。
江戸幕府は、黒船来航を発端に急速に西洋の兵器の購入に奔走したイメージがあるかも知れないが、そうではない。長崎のオランダ商館から寄せられる欧米列強の中国(清)の進出やアヘン戦争などの情報は入っていたし、、長崎の出島で英国軍艦が暴れまわった文化5年8月(1808年10月)のフェートン号事件など江戸時代後期から国際情勢が変わりつつあることは理解していた。そこで幕府は天保14(1843)年と嘉永元(1848)年の二度、オランダに蒸気船購入を打診しており、弘化4(1847)年には、蒸気船の雛型を幕府が所持していたと言われている。当初は幕府も蒸気船を運用するとはどういう事を理解していない見たいで、オランダ側が人員養成の海軍士官の必要性に対し、船だけの購入を考えていた見たいで、また、一度目の交渉の結果は不明だが、二度目は、蒸気船の購入が高価で輸送するのも困難であること理由に断られていた。しかし、嘉永6(1853)年の6月にペリーが来航し、同年8月、いよいよ幕府も本格的な交渉を開始、そして、オランダ商館で幕府が交渉し、オランダ本国から蒸気コルベット7、8隻を来年の夏まで回航する運びとなった。
クリミア戦争と観光丸
安政元(1854)年3月28日クリミア戦争
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%83%9F%E3%82%A2%E6%88%A6%E4%BA%89が勃発、この時、オランダは局外中立の立場から新型の兵器を海外へ輸出することは禁じられていた。そこでオランダは、幕府に対して、とりあえず、蒸気船の造船・機関・砲術などの伝習をやられたらどうかという話から始まり、幕府はこれを受け入れ、たまたま日本に来ていたオランダの蒸気軍艦が、オランダから寄贈された。これがスンビン/ズームピングでのちの観光丸となる。安政二年、オランダ海軍からペルスライゲン以下22名の派遣教師団も来日、こうして、日本幕府海軍創設の一歩が始まった。

神戸海軍操練所に入る観光丸
すでに旧式化していた観光丸
観光丸は長さ約52m、150馬力の蒸気機関、大砲6門を搭載し、速力8ノットで走る3檣バークの立派な軍艦であるが、当時の世界の情勢では、外輪船自体が旧式化が始まっており、幕府の遣米使節船の随伴艦として候補にもなったが、やはり、波の抵抗の強い外輪船は太平洋横断には不向きとして、咸臨丸にその座を譲っている。そして、しばらく練習艦として使用された後に佐賀藩が一時所有し、明治になると明治政府が所有して明治9年に解体された。観光丸自体は派手な活躍をしていないが、勝 海舟のもとで、坂本竜馬、陸奥宗光、伊東祐亨などの人材を育て、日本に海軍創設の礎になった事を考えれば、歴史的価値の大きい船だったと言えるの思う。
参考文献
世界文化社 復元日本大観 4 「船」
著者 石井 謙治/石渡 幸二/安達 裕之
次回は年末予定です。

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