第36回 いろは丸事件
どうも久しぶりです。いろいろとゴタゴタして1年半が過ぎました。実は2013年の今年、始める予定が2月に手首をスキーで骨折しまして、更新も遅れていました・・・。昨年の春、明治も終わる、次に何をしようと考えてるうちに季節がどんどん過ぎ、今日の記事も昨年の春書いていたものてです。再開のメドの立ちました。これからは和船以外もやると思いますのでよろしくお願いします。
今回は画集の表紙になっている゛いろは丸゛の話。
いろは丸事件とは・・・。
いろは丸事件というのは、どういう事件なのか? 慶応4年(1867年)広島県 鞆の浦沖で起こった日本初の蒸気船どうしの衝突事故になる。事故の内容はこうなる。゛御手洗方向へ行く航路を西進していた明光丸を発見したいろは丸は、左に舵を取り、遅れていろは丸を発見した明光丸は右に舵をとった後、左に戻し、衝突した。衝突後、いろは丸乗組員は明光丸に乗り移ったが、当直士官が甲板にいなかったという。またその後明光丸はいったん後進していろは丸から離れたが、再び前進して再度いろは丸に衝突、これが沈没の原因となった。明光丸は乗組員全員を乗せ、いろは丸を鞆港に曳航しようとしたが途中で沈没した。゛(ウィキより抜粋)ということである。ただ、この他にも霧が深い日だったとか、いろは丸または、明光丸どちらが、げん灯を付けてなかったとか、左右逆に付けていたという説も多々あるが、ハッキリしたことはわかってない。そのために話が何点もして、当初は、鞆の浦で賠償交渉をしましたが纏まらず、明光丸は長崎へ出港してしまいました。いろは丸の船主になる坂本竜馬は、陸奥陽之助(宗光)の意見もあり万国法によって交渉しようと思い、イギリスに仲裁を頼みましたが断られ、結局、長崎で交渉が始まり、岩崎屋太郎を中心とする土佐藩と紀州藩の代表との間で紆余曲折を経て、明光丸の持ち主の紀州藩が海援隊・土佐商会(土佐藩)に8万3526両198文、現在の金額で約25億円から約42億円を払うという話になりましたが、後のゴタゴタやいろいろあって、7万両は減額され、1万3526両198文が11月7日に支払れましたが、皮肉にも、しばらくして慶応3年11月15日に近江屋で坂本竜馬は暗殺され、海援隊も歴史の渦の中へ消えて行きました。

長崎歴史民俗資料館のいろは丸資料(ウィキより抜粋)
いろは丸とは、どういう船?
1862年にアビゾ号という名前で、イギリスのバーミンガムで建造され、長崎で坂本竜馬と五代友厚の仲介でポルトガルから伊予国大洲藩が購入し、゛いろは丸゛と命名されました。全長 約16m/全幅 約1.6m/トン数 160トン/機関、 45馬力、 蒸気内車(スクリュー船)、マスト3本あり、帆走可能という船だが、当時は機帆船といって、航行中は機関はあまり使用しない。という船であるが、父の絵は日本海事史学会の発表された資料をもとに描いた絵であるが、鞆の浦資料館の絵と違う帆走装備でハッキリわかっていない。また、3年前に長崎歴史民俗資料館で、これが゛いろは丸゛じゃないかと言う絵が発見されたが、これもハッキリしたことがわからず、今でも詳しいことはわかっていない。また、いろは丸は海中調査も行われてるがいろは丸が、積載していたと言われる銃火器も発見されていない。ちなみに、この船の購入に最も関わっていた伊予国大洲藩の国島六左衛門は、゛いろは丸事件゛の責任を取らされ切腹させられている。
明光丸とは、どういう船?
こちらも1861年にイギリスでバハマ号という名で誕生し、長崎にいたイギリス商人トーマス・グラバーの紹介で元治元年(1864年)10月に紀州藩が購入しました。こちらもスクリューを動力とする機帆船ですが、全長が42間(約76.36m)、全幅 6間(約11m)、排水量887トン、機関 150馬力あり、当時しては大型の軍船でした。衝突の際も大型船のため然程の損傷もありませんでした。しかし、時代の波には勝てず、いろは丸事件後の第2次長州征伐の頃から、軍船ではなく輸送船と使用され、明治には、日本国郵便蒸気会社(合併を繰り返し後の日本郵船)で使用されました。
蒸気船黎明期に起った事故
この事件は、陸奥陽之介(後の外務大臣陸奥 宗光)が万国法を取りだしたことで有名ではあるけれども、もっとも注目すべきは僚船とも蒸気船であり、当時の最新鋭の装備であることは言うまでもないが、当時の日本人が操るにはまだ゛未熟゛としか言いようが無く、この事故もそうだし、北海道江差沖で幕府海軍の最新軍艦゛開陽丸゛が沈んだこともそれに起因があると思います。゛どんなに優秀な物を金で手に入れても、それを操る゛人゛が未熟であれば、性能を充分に発揮できずに消えていく゛そんな事をこの事件は物語っているかもしれません。
参考文献
日本の船(海から見た日本史)
画 谷井 建三
() 魚津印刷
ウィキぺディア
次回は10月中旬予定です。諸事情があったとは言え、約1年半、近く更新出来なくてすいませんでした。本当はこの記事も昨年の4月に出す予定でした。しかし、明治になり和船のネタが無くなりつつあり、どうしようと悩んだ時期もありました。これからは軍船やそれ以外のものも幅を広げると思うのでよろしくお願いします。
これからも続けたいと思いますのでよろしくお願いします。

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