「『なぜ日本人は、最悪の事態を想定できないのか』(井沢元彦)」
人文科学・社会科学
『なぜ日本人は、最悪の事態を想定できないのか』
井沢 元彦(著)
2012年
祥伝社
☆
祥伝社新書の「289」。サブタイトルは「新・言霊論」。「福島第一原子力発電所」の文字から始まる本書、日本人の危機管理能力・意識の甘さについて論じた本かと思ったら、違った。著者が「日本人の深層心理に刻み込まれている」と言う「言霊(ことだま)の原理」(「言葉と実体がシンクロする」という信念・迷信)について述べた本。日本人が歴史的に数々の大失敗を繰り返しているのは、「言霊の迷信」から脱却できないでいるからなのだそうだ。アホか。
文字サイズが大きく、新書としても薄手なので、すぐ読める。…すぐ読めるが、読む価値はないっ(怒)。個人として、あるいは組織としての危機管理に何か役立つかな?と思って手に取ったのだが…、そういう本ではなかった。時間を無駄にしただけだった…(涙)。
タイトルになっている「なぜ日本人は、最悪の事態を想定できないのか?」という問いに対する著者の答えは、「『言ったことが実際に起こる』という『言霊の迷信』が今も日本人の心の奥底に染み付いてしまっている。だから、最悪の事態を『想定できない』というより、敢えて『想定しない』のだ」というもの。著者によれば、日本人がこの迷信から脱却できていれば、福島第一原発の事故は起こらなかったのだそうだ。著者は「朝日新聞は自分を無視している」ということだけを主張するために本書の終章「私と朝日新聞闘争史」を書いているのだが、アホ過ぎて相手にされていないだけなのでは…?
いくらなんでもこれはヒドい、というのが率直なところ。こういうのって何なんだろう? まさか本気で書いているとは思えないし、わかって書いているとするならタチが悪い。僕は道徳的な人間でも正義漢でもないが、さすがにこのような本に対しては憤りを覚える。こんなコジツケばかりの本は出版されるべきではない。自説をもっと大きな声で発信していれば、原発事故は未然に防げていたのではないか…、なんて、開いた口がふさがらない。東日本大震災後の危機管理意識の高まりに乗じた便乗本に過ぎない。著者の『逆説の日本史』シリーズ(小学館)はかなり売れているらしい。著者のファンが集まる講演会等の「放談」としてなら、まぁ冗談として笑えるのかもしれないが…。福島の人が読んだら、怒るんじゃないかなぁ。
個々の日本人や、日本の組織(民間企業から、政府、世論まで)が、まるで「言霊の迷信」に囚われているかのような意思決定をする、ということは確かにあると思う(と言うか、著者の言う通り、「よくある」と僕も思う)。日本社会の外部に立つ外国人から見れば、「日本人は言霊の力を信じている」としか考えられない場合もあるだろう(政治学者や社会学者、文化人類学者以外の一般の人々には)。だからこそ、実際には日本人は「言霊の迷信」を信じているワケでもないのに、何故「信じているかのように見える」行動や社会現象が生まれてくるのか、それを解明することが、日本社会の内部にいる人(人文・思想・社会科学者や言論人、評論家、等。日本人でなくても構わない)に求められることなんじゃないの?
そして、個人の行動、組織の意思決定、社会現象や世論や「常識」が(社会的に)生み出されてくるプロセスは複雑怪奇で、その社会の内部にいたってよくわからないんだから(それを専門に理解しようとしている社会科学者にだって「部分」は見えても「全体像」までは把握できないんだから)、日本人が「言霊の迷信」に今も囚われているかのように「見えてしまう」ワケを外国人にちゃんと説明できるのなら、それは当の日本人にとっても目からウロコが落ちるような無茶苦茶刺激的な議論になるんじゃないの? そういう議論を目指さずして、こういうかたちでお茶を濁されると…(怒)。
こんなバカみたいな本は久しく見たことがない!と呆れながら(我慢して)読んだのだけど、強いて言えば、『
「意識高い系」という病』(常見陽平(著) 2012年 KKベストセラーズ)が似ているかなぁ…。タイトルだけ見て興味を惹かれて読んでみたら、信じられないくらいにバカげた本だった、というところが…。
この本、タイトルとサブタイトルがおそらく逆なのだ。『新・言霊論――なぜ日本人は、最悪の事態を想定できないのか――』であるべきなのだろう。その方が本書の中身をよく表していると思う。僅かな違いだが、そうであれば僕もこんなには怒らなかったのではないかと思う。
本文180ページ程度。

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