『火花』
又吉 直樹(著)
2015年
文藝春秋
☆☆☆
言わずとしれた大ベストセラー、ピース・又吉氏による第153回芥川賞受賞作(2015年上半期)。実家の本棚にあったので(70代の両親が読んだらしい)、今更ながら読んでみた。
20歳の若手お笑い芸人と4歳年上の「師匠」との、十数年に渡るやりとりを紡いだ物語、なのだが…、普段小説を全く読まない僕にはどう楽しめばいいのかよくわからない作品だった(涙)。去年1度読んだ切りでレビューを書けずにいたが、第160回芥川賞受賞作(2018年下半期)の『1R1分34秒』(町屋良平(著) 2019年 新潮社)を読んでいてこの2人のことを想い出し、この際なので読み直してみた。
己の人生の納得の仕方、納得するためのプロセスを描いた作品なのかなぁ…、という印象。昔、かれこれ20年くらい前に心理学の授業で聴いた話なのだが(と言うか、講師を務めていたのは僕だったので(笑)、「聴いた話」ではなく「聴かせた話」なのだが)、発達心理学という領域では、人間の一生をその「発達段階」に応じて何段階かに分けて考察していて、そのそれぞれに乗り越えなければならない「発達課題」が存在している、というような議論がなされている(例えば、「青年期の発達課題」と言えば「アイデンティティーの確立」とかね)。その発達段階の内の最終的な段階が「老年期」で、「老年期の発達課題」は「自分自身の人生を受容する」こと。一点の曇りもないバラ色の人生を送れる人なんているハズがない。誰の人生にも良いことと悪いことがあるワケで、それでもこの人生がたった1度切りの自分自身の人生なんだ、と受け容れることが出来るか否か。それが出来るならそこそこ満足して人生の終焉を迎えられるし、出来なければ自分の人生を悔いて悔恨の中で生涯を終えることになる、とか何とか。
ただ、この話を(授業で)話したのは僕がまだ30歳になる前で、正直ピン!とキてはいなかった。誰にでも「自分自身の人生を受容する」ことは出来るものなのだろうか? それは自然に「受け容れられるようになる(少しずつ、あるいはある時期急に、そういう心境になる)」ものなのだろうか? そうでないとしたら、どうすれば受容出来るようになるのだろうか? この話は妙に記憶に残っていて、ずっと疑問に思っていた。僕は発想が未来志向ではなく過去に囚われてしまうタイプだし、超がつくホドのネガティブ人間。とても受容出来るとは思えなかった。
しかし年をとって、感じ方がいろいろと変わってきた。若い頃は自分の顔も名前も大嫌いだったのに、それほど嫌ではなくなってきた。むしろ愛着が湧いてきた(笑)。単に見慣れただけなのかもしれないし、「そもそも受け容れるしかないものなのだ」と諦めがついただけなのかもしれないが…。「諦めると楽になる」という経験は40歳を過ぎてからいろいろと経験している。しかもその「楽さ」は意外と嫌な感じではないのだ(笑)。若い頃はそういった「諦め」が「人生の誤魔化し」を意味しているように感じていたが、今ではむしろ「諦めたところから人生は始まる」という気すらする(笑)。いろいろ諦めた後で残された可能性の中で如何に楽しく生きていくか、それが人生じゃないか、とも思う。これは若かった頃には想像も出来なかった心持ちだ。
とまぁ、この物語を読みながらこんなことを考えていた。自分自身の人生を「これが自分の人生だ」と受け容れるためには、「こんな人生、他にはない」と感じる必要があるのかもしれない。別にありふれた人生で構わないのだ。4桁の暗証番号みたいなものである。「0846」「4601」「5299」「8429」、どれもありふれた数字だが、「たった1つの」「かけがえのない」僕だけの暗証番号だ(笑)。僕の人生は、最高でも最低でもなく、ありふれてはいるものの、無限の可能性の中のたった1つの人生なのだ。他のどんな人生とも交換不可能な、たった1度切りの自分自身の人生なのだ。「5299」、なかなかいいじゃない?(笑)
そういうことに気付くためには、自分の人生をジックリと見返してみる必要があるのかもしれない。この物語の主人公が彼の「師匠」の一挙手一投足を記録に残すのは(彼は師匠と初めて出逢った日に「俺の言動を書き残して、俺の伝記を作って欲しいねん」と言われている)、またその主人公の姿を著者が作品に描くのは、そういうことなのかな?と思う。自分の人生を「これが自分の人生だ」と受け容れるための大切なプロセス…。
ずっとタイトルの「火花」の意味するところが僕にはよくわからなかったのだけど…、今はボンヤリと「線香花火」のようなものを想い浮かべている(物語のプロローグとエピローグで描かれている大きく鮮やかな打ち上げ花火のイメージではないし、ガソリンエンジンの点火プラグの放つ鋭い一瞬のスパークでもない(笑))。僕はどんな人生も、それこそ「ラヴィアンローズ」も「犬死の人生」も大差ないと思っている(これも「諦めた」後の「開き直り」に過ぎないのか…)。何と言うか、死は誰にとっても平等だ。死んでしまえば皆同じ、ドングリの背比べだ。人生なんて線香花火みたいなものである。だけどそれはそれぞれ皆異なっていて、それぞれのかけがえのなさがある。『その美しさは平凡な奇跡だ。』そのかけがえのなさに気付くことが老年期の(つまり、人間が最後に克服すべき)発達課題なのだろう。
初出は「文學界」(2015年2月号)。2017年に新潮文庫に収録されている。
本文145ページ程度。

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